意味が無いと言える人生はただそこにいるだけのこと
朝起きて、仕事 or 学校に行き、帰ってきてご飯を食べて風呂に入って寝る。
休日も仕事 or 学校こそないが似たように過ごしてしまう。
毎日が上記のような生活を送ってしまっているようであれば、
これでは意味が無い人生と言えるだろう。
例えば、やりたい事があるが病気を患っていて思うように出来ていない。
この場合はどうだろうか。
この場合は、人生に意味を持たしているので「生きている」と言える。
どういう事かというと、今すぐに目的が達成出来ない事でも、
自分で何かをする目的があり行動しているからである。
これまでにもひょっこりと書いた事があるだ詳細は書いていない。
そう、自分は幼少期から患っているものがある。
学生時代はずいぶんと馬鹿にもされ、イジメも受けた。
社会人になっても馬鹿にされる事はごく稀にはなったがいまだある。
そういう局面になれば、人間の悪意に悲しくなり、
また、今でも自分自身を恥じる気持ちになる事は無くはない。
「これ以上生きている事が出来ないかもしれない」
そう思いながら、20代後半は日々をいたずらに消化し数年ただそこにいた。
苦しい時にはそこに価値を見出せなく絶望しかないように思えてしまう気持ちも理解できるのだが、
そういう時は決まって視野が狭くなっている事が起因している。
もし、この記事を読んでくれているアナタが今がその状態だとしてもネガティブを恥じる事をしてはいけない。
まだ、きっかけを見つけられていないだけだ。
ただ、それだけに過ぎない。
 
どんな事にでも目的を定めて、始める事が人生と言えるだろう。
その内容がどんなものであれ、これをやってみようと思い行動したなら、
他人には些細な事だと思われてしまうだろうなどと悲観しては絶対にいけない。
他人に生きるわけではないので、
自分の価値観を人から批判や評価を受ける必要すらないわけです。
ブログを始めても良いし、Twitterを始めても良い。
毎日10分歩くでも良いし、対面でもSNSでも他人に自分から話かけてみるでも良い。
将棋を勉強するでも、懸賞に応募でも良いし自分に興味を持たせて始めてみよう。
他人から教えてもらった事を始めた場合でも、
自分が思い、行動している事は他人に生きるわけでは無く、
きっかけがただそこにあっただけに過ぎないからだ。
行動したなら、もう「そこにいるだけ」の自分は存在していない。
それが生きているという事になる。
最初から何事もうまくは行かないし、思うようにならないかもしれない。
苦手な事を頑張って他人から笑われ心を傷つけられるかもしれない。
それでも言いたい事がある。
 
「自分の事を自分自身だけは笑ってはくれるな」
これは声を大にして言いたい事である。
 
失敗ではなく、上手くいかないやり方を覚えただけだ。
卑屈になっても、悲観してもいけない。
何度も言うが、ただそこにいては意味がない。
今この瞬間に、人生に意味を持たせていこう。
自分の患いは幼少期に比べれば良くなってはいるのだが、まだまだ一般的にはほど遠い。
手術でどうにか出来る事でもないが、
これを克服出来たらどれだけ人生に広がりが出るのだろう。と想いを馳せる。
自分の場合は、目的があってブログやTwitterを昨年から始めたという事が1つある。
自分自信で人生に意味を持たせられているし、前とは違い生きていると思っている。
目的に向かって努力し生きている人間を自分は心より応援したい。
苦しんでいる誰かの為になれたなら幸いだ。
斯くして、生きてく強さを重ね合わせ愛に生きるのも千里の道も一歩から。
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